「ぼっちゃん、歩くの早いです〜」
「そんなに飛ばしたらこのさき体力が持ちませんよ」
「ぼっちゃん」
「…ついてくるな」
赤月帝国に終止符が打たれた夜。
あらゆる悲しみを生み、のみ込んでいった戦いの終焉。
祝宴に騒ぎ疲れて、誰もが寝静まったはずの丑三つ時。
着の身着のままで帝都を出ようとしたの前をふさいだのはグレミオだった。
なんで寝てないんだよとこれ見よがしに舌打ちしてやり、彼を無視してそのまま街道に出たのだが。
「夜は冷えるんですから、そんな薄着では風邪を引いてしまいます」
「……」
詰めてくるのでも、しかし諦めるでもなく、一定の距離をたもちながらグレミオはついてくる。
新しい国の大統領を辞退したの心情は彼も理解しているだろう。
だがその後の思考まで読まれていたことは誤算だった。見通しの甘さを後悔する。
さすがは母代わりを自称する相手…いや、関心している場合ではない。
そこまで読むのであれば、置いていく理由も察して欲しいのに。
信じると決めた戦いは終わった。
どれだけの人がどれだけの悲しみを背負ったのだろう。
得ようとするものが大きければ大きいほど、その代価も比例する。
じゅうぶんに苦しんできた。
もう失いたくない、一番大切なもの。
だからどうか追ってくるな。追わないでくれ。
ざりざりと舗装されていない道に入り四半刻ほど歩いても、背後の気配は一向に消えない。
「グレミオ! いい加減に 」
振り返ると、いつのまにかの間合いに彼が入っていた。
反射的に後ずさるより早くグレミオの身体が動く。
ビリ、と右手の甲が疼いたのは、物理的な痛みかそれとも―
「!」
彼がの呪われたものを手にしている。
「やめろ!」
が嫌がるとわかっていてグレミオはあえて右手をつかんだのだ。
考えるより先に身体が反応し、はじくようにグレミオから逃れる。
だがすぐに捕らえられ、は全身で腕を引くが今度はびくともしなかった。
握りつぶされてしまうのではないかと思うほどの強い束縛。この優男のどこにそのような力が眠っているのか。
「…離せグレミオ」
「離しません」
穏やかなのに、強く響く声。
「この先もずっと離しません。もう二度とぼっちゃんを置いていったりしないこと、証明してみせますよ」
ソウルイーターになんて捕らわれないのだと、まっすぐな碧眼がを射抜く。
「そんなのうそだ」
この身に宿る紋章があるかぎり、貪欲な死神はの大切なものを喰らい続ける。
いつかまた犠牲になるグレミオを目の当たりにしたら、今度こそ気がどうにかなってしまう。
そんな残酷な未来を押しつけるのか。
「私の魂はもうすでに囚われているのですから、再び同じものを欲しがることもないでしょう」
どうしてそんなことが言えるんだ。どうしてそこまで求めてくれる。その覚悟はどこから―
「ぼっちゃんのいないどこかでぼっちゃんを想いながら生きるなんて…私にはできません」
淋しげに笑うグレミオに、身体がふるえた。
そそがれる想いの大きさに苦しくなる。
簡単に得られるはずの平穏を手放して、それでもを選ぶとは。
―なんて莫迦なんだ。僕も、お前も…
「テッドくんがぼっちゃんの右手でぼっちゃんを守るのなら、グレミオはぼっちゃんの隣でぼっちゃんをお守りします」
「グレ、ミオ…」
「新たな誓いです。ひとつはこの斧に、もうひとつは…あなたに」
夜の視界に、濃い暗闇が落ちる。
髪を覆うバンダナ―その布越しに何かあたたかなものを感じた。
大事な大事な宝物を心の底から慈しむような。そんな優しいくちづけ。
落とされたまま立ち尽くす。
まるで世界は二人だけのような錯覚を起こすほどに、すべての意識がグレミオへ向かう。
こんなことで丸め込もうだなんて、グレミオは卑怯だ。
の背中を守り、の背中を押してくれた存在、それはいつだってこの従者だった。
ずっとそばにいて欲しい。
このぬくもりを手放したくない。手放すなんてできない。
どこまでもに向けてくれる想いを断ち切るなんてこと、本当はもう出来ない。
迷いの無い彼の言霊を受け入れるようにはゆるりと目を閉じた。
守ると約束した、呪われた紋章。
これからの永い時間、命を懸けて守り、命を懸けてあらがってやる―
それはどのくらいだったのだろうか。
時の感覚が飛ばされてしまい、我に返った頃にはすでにグレミオは離れていた。
おぼろげな感触よりも行動そのものの衝撃が大きく、おそらく熱を帯びているだろう頬を、うつむくことで彼の視界から隠す。
「…破るなよ」
「もちろんです」
「僕に誓ったんだからな」
「ええ。あなたの身体に誓ってしまいました」
「変な言い方をするんじゃない」
まったく力の入っていない両腕でポカポカとグレミオを殴ったが、柔らかく止められたこぶしはそのまま彼の手の中に収められて。
「…グレミオのばか」
「グレミオはばかですが、そんな悪い言葉使っちゃいけません」
嬉しそうに言うものだから、続けて放り投げようと思っていた悪態を喉元で失ってしまう。
彼の節くれ立った手を握り返してはため息をついた。
―グレミオには一生勝てない気がする…
「ところで、これからどうなさるんです?」
「決めてない」
「また無計画な…」
「うるさいな。それならお前が何かいい案出せばいいじゃないか」
「そうですねぇ。海でも見に行きますか?」
「海?」
「はい。ぼっちゃんは海をご覧になったことないでしょう? この機会に色々見てまわるのも悪くないかと」
「そうだな…それもいいかもしれないな。グレミオ、道案内はまかせる」
「えええええ」
「なんだよ」
「…まず街に寄って長旅の支度をしましょうか。地図も買います」
「……。(グレミオも見たことないんじゃないか?)」
つながれている二人の手。
わずかに白んできた明け空に目を細めながら、グレミオはそっと指を組み替えた。
お互いのひとつひとつが交互に絡む。
「…グレミオ」
「なんでしょう」
「歩きづらいんだが」
「そうですか? 私は大陸の果てまで歩けそうなほど元気がわいてきましたよ」
見上げたグレミオがこれ以上ないほどに満面の笑みをたたえていたので、もはや突っ込む気も無くしてしまった。
感じるはずのない手袋越しの体温は熱く、指先から甘く痺れる。
胸の奥がにぶく痛み、ひどく落ち着かないのに心地よいというおかしな矛盾。
だけに向けられる笑顔。それだけでの心は波紋のごとく揺さぶられる。
グレミオも同じ気持ちでいてくれているのだろうか。
いい歳をして臆面なく笑う喰えないこの男へ、せめてもの反抗としては一発蹴り飛ばす。
「い、いたっ。ぼっちゃん、グレミオはそんなふうにお育てした覚えはありませんよ!」
良家のたしなみなどすっかり抜けた様子に、悪い熊に影響されてしまったのだとグレミオは嘆く。
グレミオ自身があらゆる意味で不在だったことも原因の一つなので、責めることも出来ないのだけれど。
「はあ…そりゃ〜昔もちょっとは悪戯っ子で困らされたりしましたけど、ここまでひねてはいなかったのに…」
いつまでもぐちぐちと呟いているグレミオ。
それはまるで世話の焼ける息子をぼやく母親のような姿で、とてもおもしろくない。
交差する熱に力を込め、素肌がさらけ出されている彼のそこには唇を押し当てる。
「ぼぼぼぼぼっちゃん!?」
一瞬だけ身体を硬直させたグレミオは暗がりでもわかるほどの朱色に染まった。
自分はもっと気障くさいことをやったくせに、どうやら受身になるのは苦手なようだ。
あの屋敷で暮らしているだけではきっとわからなかったこと。
これからの二人の旅路のなかで、の知らないグレミオをもっと見せてくれるだろうか。
不安がぬぐいきれているわけではないけれど、頭で考えていても意味がない。
何を言ってもどうせついてくるのだから。
ならば。そこで出来ることを、限りあるグレミオのそのときまで精一杯やってやろうと思う。
惑いが捨てられた飴色の瞳は、澄んだかがやきを放つ。
「今日中に宿を見つける。野宿は絶対にしないからな」
「はい、ぼっちゃん」
まだ見えない明日へ進む漆黒のきらめきと、寄り添う金糸。
ちらちらと星が瞬きながら朝を待つ闇へ、ふたつの影は静かに溶けていった。
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